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2011年10月17日 (月)

初の入植者の5代目がみる世界遺産・小笠原「島にとって治療の時期」 (MSN産経ニュース)

初の入植者の5代目がみる世界遺産・小笠原「島にとって治療の時期」 (MSN産経ニュース)

小笠原諸島が世界遺産に登録されて約4カ月。東京から南に約千キロ、定期貨客船で25時間半かけて、たどり着く島は、豊かな自然をたたえる一方、戦争の爪痕が残り、歴史の波に翻弄されてきた成り立ちを物語る。日本統治と米軍統治のはざまで揺らぎ、言葉も影響を受けてきた。「自然遺産」として登録された小笠原諸島には「文化遺産」としての側面もある。(酒井潤)

 「子供のころ、『冷蔵庫(refrigerator)』のことは『リーファ』、『私は』は『ミー(me)は』と言っていました」

 こう教えてくれたのは、小笠原村の議会事務局長を務めるセーボレー孝さん(54)だ。

 小笠原諸島は文禄2(1593)年、徳川家康に仕えた小笠原貞頼が発見したとされ、父島の小笠原神社には「無人島発見之碑」がある。無人(ぶじん、むにん)島などと呼ばれていた島々は、英語では「Bonin Islands(ボニン・アイランズ)」と表現された。

 昭和32年生まれのセーボレー孝さんは、文政13(1830)年に小笠原に最初に入植したナサニエル・セーボレーの子孫。ナサニエルの5代目にあたる。

 セーボレーさんが生まれたのは、戦後、欧米系島民のみが帰島を許された米軍統治時代。日本返還は小学6年生のころだった。

 返還を機に、英語で行われていた学校教育は日本語に一変。ひらがな、カタカナ、漢字を練習する日々が続いたという。「暑い中、朝礼での前にならえも米軍統治のころはなかった」。日本風の教育には戸惑いもあった。

名前も変わった。米軍統治のころはジョナサン・セーボレー。だが、返還で名前をどうするか、選択を迫られた。小学校の卒業証書には住んでいた地区を名字に、「奥村孝」と記された。セーボレーを「瀬堀」とした親戚もいるという。

 高校生のころから、自分のルーツに興味を持つようになった。大学は東京に出たが、「セーボレーの子孫の一人として、島に戻って島のために働こう」と、村役場に職を得た。

 そんなセーボレーさんにとって世界遺産登録とは。

 「欧米系による入植、そして日本領土になってからは開拓移住民が増え、外来生物も持ち込まれた。戦争中は旧日本軍がトーチカを掘り、米軍は爆弾を落として、島を穴だらけにした」

 事実、島のあちこちには旧日本軍の軍事施設跡が残り、通り沿いにはトーチカ跡が口を開ける。

 「世界自然遺産に登録されたことで自然も再生していかなければならない。歴史のなかで傷ついてきた島を世界的に残していくために、ようやく落ち着いて治療に専念できる」。セーボレーさんは静かに語った。

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